呉須は有田の磁器を語るのに欠かすことのできないものです。呉須で文様を描いた染付けは、もっとも初期の有田の製品にあります。このことは、有田で磁器生産が始まったころには呉須があったことを意味しています。そして、有田で使う呉須の原産国は今日まで時代により少なからず変化してきました。

呉須のように、磁器を焼成する際の1300度以上もの高温に耐え、しかも安定した発色を得ることのできる顔料は多くありません。コバルトとマンガンを主成分とした金属化合物である呉須を、白い磁器に青い文様を描く顔料として使ったのは世界の焼き物の歴史の中でも画期的なことでした。それは14世紀の中国・元時代のことでした。

江戸時代、呉須の輸入は長崎で行なわれました。
この頃は「茶碗薬ちゃわんくすり」という名前で貿易関係資料に記されています。漢文12年(1672年)には長崎で茶碗薬を扱う茶碗薬目利きが6人いたことが知られています。このうちの4人が佐賀藩の皿山のために仕入れをする商人でした。輸入量のほとんどが有田皿山で消費されたと想像されます。

有田で使用される呉須が大きな変化を見せるのは、明治以降でした。ヨーロッパの精製コバルトは余りにも濃く、明治元年に導入された際には使えないものとされていました。しかし、化学者ワグネルは明治3年に白土でコバルトを希釈する方法を有田の人たちに伝えたとされます。精製コバルトを使用する際は、中樽のボヤタンの白土が用いられました。中国の呉須にくらべて非常に安く、そして華美な発色のコバルトは、実用的な反面、その派手さが批判を受け、中国の呉須に混ぜて使用されたりもしました。精製コバルト特有の鮮明な色調は、明治後期の製品にはしだいに見られなくなる傾向にあるようです。

中国の呉須は、昭和30年代まで有田で使用されていましたが、今日ではほとんど見られなくなりました。現在、世界のコバルトのシェアはアフリカのコンゴ共和国が広く占めており、有田でも大手商社が輸入したコンゴ産のものが使用されています。


           〜おんなの有田皿山散歩史 より〜
赤絵は有田で磁器を焼き始めてから30年くらいあとに始まりました。1642年~1643年ごろのことです。
有田焼の輸出港伊万里で焼き物をあつかう有力な商人 東島徳左衛門(ひがしじま とくざえもん)が長崎で中国人技術者からこの赤絵を作る方法を学び、それを有田の年木山(としきやま)・・・現在の泉山付近にあった窯場の名前  にいた酒井田喜三右衛門(さかいだ きざえもん)に教えて作らせたのです。
酒井田柿右衛門家にのこる赤絵の始まりについての’覚(おぼえ)’と書かれた古文書に書かれています。
〜有田町教育委員会発行 皿山なぜなぜ より〜
百婆仙とは、有田焼創業に関わった朝鮮人陶工深海宗伝の妻です。彼女については、有田町稗古場の報恩寺境内にある「萬了妙泰道婆之塔(通称 百婆仙の碑)」に記されています。
宗伝は豊臣秀吉が起こした文禄・慶長(1592〜1598)の朝鮮出兵に従軍した武雄の領主後藤家信が帰国するときに、武雄広福寺の別宗和尚についてやってきました。宗伝は1618年に死にますが、その妻百婆仙が子の平左衛門と協力して、武雄の内田で焼き物つくりを続けました。
しかし、内田は材料がやわらかいという欠点が合ったようで、同族を率いて良質の原材料がある有田に移り住んだということです。それは1630年ころと考えられています。
百婆仙は有田でも多くの朝鮮人陶工から尊敬され有力な地位にありました。女性でありながら、有田焼が始まったころの重要な指導者の一人だったのです。1656年に96歳でなくなりました。

☆わらび座ミュージカル《百婆》
日韓友情年2005記念事業として百婆仙をモデルにした創作ミュージカルが開催されます。

と き 2005年5月8日(日) 午後1時30分開場
ところ 有田町文化体育館
チケット 前売り¥2000(当日¥2500)

*詳しくは下記へご連絡ください
 ・有田商工会議所 0955-42-4111
 ・炎の博記念堂  0955-46-5010
 ・有田町役場   0955-432101
 ・ローソンチケット レコード88052
有田の町にはたくさんの裏小道があります。ゆっくり2~3時間過ごしてみたいと思われる方、散策をしながら有田の歴史にふれてみませんか?
 今回はとっておきの裏小道をご案内いたします。

【泉山磁石場】
 JR上有田駅より国道に入り東へ10分ほど上ったところに泉山磁石場が現れます。磁石場に立ちますとその景観にまず驚かされます。岩が露出して木がなく、地面よりはるか下のほうまで掘り下げられています。こうした奇妙な景色は、有田焼の原料となる陶石を掘り続けたためなのです。陶石が発見された17世紀はじめにはこの空間は山そのものだったと考えられます。約400年間の採石の結果が今の姿なのです。

【有田町歴史民族資料館】
 磁石場より徒歩で3分ほど上った場所に、有田町歴史民族資料館があります。1978年(昭和53年)に開館しました。
 ここでは、有田町の歴史・民族に関する資料や、登り窯跡などから発掘された初期伊万里の陶片などが保存・展示されています。
(大人¥100・小学生¥30、特別割引有りTEL0955-43-2678)

【泉山弁財天社の大イチョウ】
 有田町歴史民族資料館を出て、西へ徒歩で5~6分下りますと右手の空にイチョウの大木がそびえています。泉山弁財天社の境内にあり、雄木で樹齢は千年くらいと見られています。高さは38メートル、根の周りが11.6メートル、枝の張りは東西31メートルにも及びます。
 1926年(大正15年)国の天然記念物に指定されています。初夏には目にもまばゆい新緑が、秋になると鮮やかな黄金色に変わり皿山の情緒に彩りを添えてくれます。
【トンバイ塀】
大イチョウより裏小道をさらに西へ下っていくと、ところどころに茶褐色で上に瓦が乗せてある土塀を見かけます。「トンバイ塀」といい有田以外ではあまり見かけることはありません。
 トンバイというのは登り窯を築くのに使った内壁用の四角いレンガのことで、内壁は窯がたかれるたびに薪の灰をかぶり摂氏1300度以上の熱をあびて表面が釉薬を施されたみたいにガラス質に変化し微妙な色合いに染まります。登り窯を壊したときにでるこのトンバイの廃材を利用して塀が造られました。
 江戸時代、窯焼きは本通りから外れた人通りの少ない場所に住みました。屋敷と仕事場をこのトンバイ塀で囲み製陶技法の秘密を守っていったといわれています。

【有田陶磁美術館】
トンバイ塀のある裏小道をさらに西に下っていくと有田商工会議所の傍らに有田陶磁美術館があります。1956年(昭和29年)に開館しました。建物は明治時代の石倉で焼き物の製品倉庫として使われていました。
 ここには、有田皿山や周辺で焼かれた陶器や磁器などの古陶から明治時代のものまで展示してあります。
 一枚の大皿の中に有田の焼き物のできるまでを描いた「染付け有田職人尽くし絵図大皿」や「赤絵狛犬」(ともに佐賀県重要文化財指定)もここに展示されています。
(大人\100/子供\30/土・日は子供無料 TEL0955-42-3372)
【有田館 〜大蛇退治物語〜】
 美術館より本通りへ出て徒歩1分くらい下った札の辻交差点に有田館があります。ここは有田の観光のための様々な資料が取り揃えてあります。
 目玉は、焼き物で作った人形をコンピューターでプログラムして上演される、鎮西八郎為朝の「大蛇退治物語」です。これは有田で開催された炎の博覧会のときに非常に人気のあったもので10分ほどの上演ですので是非立ち寄られて見ていただきたいものです。
 また、有田館には休憩所があり、湯茶の無料サービスや引き立てのコーヒーを自分で選んだ有田焼のカップでいただくこともできます。(コーヒー¥100 TEL0955-41-1300)
 
【陶山神社と李参平の碑】
 有田館を出て信号を渡り、佐賀銀行上有田支店の横の小道を抜け正面の石段を登っていくと陶山(とうざん)神社があります。この神社の主神は応神天皇で一緒に祭られているのが、鍋島直茂と李参平です。
 この神社には、焼き物でできた日本一の大鳥居、磁器でできた狛犬一対、磁器でできた大水がめが寄進され備え付けられています。百年もの前、有田の名陶たちによって造られたものばかりです。
 1917年(大正6年)に陶山神社の背後の蓮華石山(れんげしやま)の頂上に李参平の碑がたてられました。毎年5月4日には「陶祖祭」が営まれています。


参照「皿山なぜなぜ」〜有田陶磁史を歩く〜

(有田町教育委員会発行 定価¥700)
*有田町歴史民族資料館・有田陶磁美術館などで販売されています。子供たちにも理解できるようにわかりやすい言葉で書かれています。
豊臣秀吉は一五九二年(文禄1)と一五九七年(慶長2)の二回にわたり、朝鮮半島へ兵を出しました。文禄・慶長の役とよばれていますが、韓国では壬辰・丁酉の倭乱とよんでます。肥前名護屋城近くに役三十万人の群生が集まり、そこから約十五万人が朝鮮半島へ渡り、多くの人びとを殺したり、家を焼いたりして不幸な目にあわせた、実に悲しむべき事件でした。
また、兵を引き上げるに際して、各大名は挑戦の陶工を自国に連れ帰り、焼き物の生産に従事させました。このため朝鮮半島の焼き物の生産はとまり、粉青沙器(朝鮮の焼き物で陶器に白土で化粧し、その上に透明釉をかけたもの)や白磁の技術が途絶えてしまったほどでした。一方、九州・山口各地では朝鮮の陶工によって焼き物が盛んに焼かれはじめ、山口の萩焼(はぎやき)、北九州の上野焼(あがのやき)、高取焼(たかとりやき)、佐賀の唐津焼(からつやき)、有田焼、長崎の三河内焼(みかわちやき)、波佐見焼(はさみやき)、熊本の八代焼(やつしろやき)、小代焼(しょうだいやき)、鹿児島の薩摩焼(さつまやき)などがはじまりました。それらの創始者たちが朝鮮の陶工であったこと、朝鮮の人びとの大きな犠牲の上に九州・山口の焼き物の発展のいしずえが築かれたことを忘れてはまりません。

佐賀藩に連れ帰られた陶工の中に金ヶ江三兵衛がいました。
『多久家文書』には三兵衛が多久家に仕えたのち有田に一六一六年(元和2)に移り住んだとあります。多くの朝鮮の陶工を支配した焼き物生産の指導者であったのでしょう。彼の墓は有田町の白川の墓地に、過去帳は西有田町の竜泉寺にあります。それから一六五五年(明暦1)に亡くなったことがわかります。

佐賀藩は朝鮮から来た陶工の保護につとめました。一六三七年(寛永14)、山林保護のため、有田から八百二十六人の陶工を追放したことがありますが、そのときも朝鮮の陶工は例外としたほどです。江戸後期の『金ヶ江家文書』には三兵衛が李と称していたと記しています。それで今日、彼のことを李三平、または李参平と称するようになりました。(吉永陽三)

有田町教育委員会編集発行「皿山なぜなぜ」より